ジャッキー佐藤



ジャッキー佐藤(じゃっきーさとう 本名:佐藤尚子 1957年10月30日生)
 [女子プロレスラー]


 神奈川県出身。小学校の時から長身で、中学校在学中はバスケットボール部で活躍。その後、1975年3月に神奈川県立商工高等学校を2年で中退し全日本女子プロレスに入門。デビュー戦は同年4月27日のマキ上田戦。

 1976年2月24日にマキとビューティ・ペアを結成しWWWA世界タッグ王座を獲得する。ビューティ・ペアは「かけめぐる青春」「真赤な青春」「青春にバラはいらない」などの曲が大ヒットするアイドル的存在で、試合の観客席はファンの女の子たちで満員だった。当時のビューティ・ペア人気は凄まじく、試合前のリングで歌を披露する際はリングに紙テープや紙吹雪がいっぱいになった。ジャッキー佐藤名義で「美しい決意」「ポケット一杯の涙」「もしも旅立ちなら」というシングルレコードも出している。

 1977年11月1日にはマキが持つWWWA世界シングル王座に挑戦。この試合はビューティ・ペア同士の対決として注目され、互いに譲らず60分時間切れ、判定でタイトルを獲得。1979年2月27日には「敗者引退」という過酷なルールでのマキとの再対決は48分7秒、エビ固めで勝ち、マキは引退、ビューティ・ペアに終止符が打たれた。マキ引退後はモンスター・リッパーにWWWA世界シングル王座を奪われるも奪還したが、1981年2月25日のジャガー横田戦で同王座から転落。1981年5月21日に引退式が行われた。

 その後新団体「ジャパン女子プロレス」の設立に参加。1986年8月17日、対神取忍戦にて現役に復帰する。しかし、団体内トラブルにて神取との確執が発生し壮絶な死闘を繰り広げ、1988年3月20日での試合を最後に引退した。

 引退直後の1988年には体操教室の会社「ジャムナ」を設立する。スポーツプログラマー、ヘルスケアトレーナーの資格を取得し、中高年女性を中心に自らが考案した「ジャムナ体操」を教える。

 1998年10月、がんを告知され手術を受けたが、既に手遅れの状態であった。その後、退院したものの、翌年3月に再入院。同年8月9日、胃癌のため入院していた川崎市内の病院で、ジャパン女子プロレス時代の後輩ナンシー久美らにみとられながら静かにこの世を去った。

 ジャッキーは死ぬまで自分の病名を女子プロ関係者やマキには伝えず、マキはそのことについて「哀しいけど、いつまでもライバルとしてみていてくれたことが嬉しい」と話している。大のタバコ好きで、棺にはタバコが納められた。

 1999年8月9日死去(享年41)


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