村山聖



村山聖(むらやまさとし 1969年6月15日生)
 [将棋棋士]


 広島県出身。5歳の時にネフローゼ症候群という腎臓の難病にかかり、死ぬまで病と闘うことになる。小学校に入学するも病状が悪化し、5年生まで国立療養所原病院に入院し、院内学級で過ごす。入院中に父から教わり、将棋と出会う。体に障ると何度注意されても朝から晩まで指し続けたという。以降めきめき頭角をあらわし、中国こども名人戦で5年連続優勝。また、当時タイトルホルダーの森安秀光を飛車落ちで破った。

 1983年、森信雄を師匠とし、奨励会を受験して入会する。奨励会では在籍2年11ヶ月という異例のスピードで四段に昇進し、プロ棋士となる。奨励会入会からプロ入りまで2年11ヶ月は、谷川浩司や羽生善治をも超える異例のスピードである(しかも村山は病気による止むを得ない不戦敗がたびたびあった)。村山は「怪童丸」の異称で呼ばれ、奨励会員時代から「終盤は村山に聞け」とまで言われたほど、終盤の読みには定評があった。「東の羽生、西の村山」と並び称され、期待されたが、体調不良で不戦敗になったり、実力を発揮できない事もあり、実績では羽生に遅れを取ることとなった。

 その後、病と闘いながらもA級八段までのぼりつめたが、血尿に悩まされるなどで順位戦の成績が不振で1997年春B級1組に降級する。その後、進行性膀胱癌が見つかり入院、片方の腎臓と膀胱を摘出する大手術を受けるが、休場することなく棋戦を戦い続けた。「脳に悪影響がでて将棋に支障がでては…」と抗がん剤・放射線治療を拒んでいた。これは将来において、子供が作れなくなることへの危惧からでもあった。また、村山は髪の毛や爪を切ることを極端に嫌がり、独特の風貌であったため、周りから不潔だと噂されていたこともあったが、これは髪の毛や爪にも命があり、それを切るのは忍びないという繊細な思いから来ていたことであった。晩年になると将棋年鑑の「今年の目標」では「生きる」と書くようになった。

 手術後の復帰第1戦であった第56期B級1組順位戦2回戦(1997年7月14日)の対丸山忠久戦は、角換わり腰掛け銀の激しい展開から総手数173手という、深夜に及ぶ戦いとなる。結果は丸山の勝ちであったが、病苦に耐えながら指していたとはとても思えない内容の激闘・名局として伝説化されている。同年度は、NHK杯戦でも決勝まで勝ち上がる活躍。決勝の相手は羽生であった。村山優勢で進んでいたが、最後に秒読みに追われてミスをして優勝を逃す。しかし、局後のインタビューでは、笑顔で「優勝したはずなんですが」と冗談を言った。これで羽生との対戦を通算6勝7敗で終えた。

 1998年春、ガンの再発・転移が見つかり、「1年間休戦し療養に専念」する旨公式発表、1998年3月の最後の対局を5戦全勝で終え、対局の場から姿を消した。1998年版「将棋年鑑」のプロフィールでは、「今年の目標は?」との項目に「生きる」と書き残している。以降、逝去するまで故郷・広島大学病院の名札の無い病室でひっそりと過ごし、1998年8月8日、29歳の若さで死去。薄れていく意識の中で棋譜をそらんじ、「……2七銀」が最後の言葉であったという。

 本人の希望により葬儀は家族のみで行い、葬儀終了後その死が将棋界に伝えられ、大きな衝撃を与えた。日本将棋連盟はその功績を讃えて逝去翌日の8月9日付けで九段を追贈した。また、「将棋世界」誌は98年10月号を「特別追悼号 さようなら、村山聖九段。」と題して発行し、無冠の棋士の死を悼んだ。

 1998年8月8日死去(享年29)


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