マーティン・ドネリー



ヒュー・マーティン・ドネリー(Martin Donnelly 1964年3月26日生)
 [北アイルランド・レーシングドライバー]


 フォーミュラフォード2000を経て、1986年からイギリスF3に参戦。初年度にランキング3位を獲得するなど活躍を見せ、若手の有望株と目される。

 1987年には、マカオF3で優勝。それらの実績から、1988年には国際F3000にステップアップ。ジョーダンに所属し2勝を挙げるなど、ジャン・アレジのライバルとして活躍した。

 1989年フランスGPを怪我で欠場したデレック・ワーウィックの代役としてアロウズからF1にデビューし、12位で完走した。

 翌1990年には、ロータスのレギュラーシートを手にするが、マシンの戦闘力は低く、同期のアレジの躍進の一方で、苦しい戦いを強いられることとなった。第13戦ポルトガルGP消化時点で、最高位は第10戦ハンガリーGPにおける7位と、ポイントも獲得できていなかった。

 第14戦スペインGPでは、フリー走行で好タイムをマークしていた。期待のかかる状態で予選1日目を迎えたが、そこでマシンが粉々になるほどの大クラッシュを起こす。

 高速コーナーでフロントサスペンションが壊れ、コントロール不能となり、時速255kmのスピードで外側ガードレールに激突。その衝撃でカーボンファイバー製モノコックのフロント部分は粉々に粉砕され、ドネリーはシートベルトを締めたシートごとコースに投げ出された。

 手足の関節は異なる方向に曲がり、コースに横たわり身動きしない彼の姿は、関係者・視聴者に大きな衝撃を与えた。全身の数箇所を骨折し、内臓破裂に伴い一時は危篤状態となったが、最終的には一命を取り留めた。

 当時ロータスは資金難にあえいでおり、チームの勢いは完全に下火となっていた。彼の乗っていたモノコックは既に一万キロ以上を走行していたともいわれ、疲労した車体を換えることもままならないなかでのレース参加であった。

 なお、同僚のデレック・ワーウィックによると、事故発生時、極めて自己中心的な性格のネルソン・ピケがコース上のドネリーの前にマシンを停めて轢かれないように守ったり、他人に寸毫の容赦もないドライブをするアイルトン・セナが群がるカメラマンを追い払ったりする様子に、彼等の人間らしい別の一面を見たと述懐している。

 その後、日常生活に支障がないレベルまでは回復したが、マシンからの脱出テストなどに合格できず、レーシングドライバーとして復帰することはできなかった。そのストレスなどから怪我の際にドネリーを看病した妻とも亀裂が入り、離婚に至っている。

 1995年頃、自身のチーム「マーティン・ドネリー・レーシング」を立ち上げ、F3やフォーミュラ・ヴォクスホール等にも参戦。現在は英国の「コムテック・レーシング」で、ドライバー育成担当マネージャーの職についている。


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