福永洋一



福永洋一(ふくながよういち、1948年12月18日生)
 [騎手]


 高知県生まれ。1968年に中央競馬で騎手デビュー。3年目の1970年に初の全国リーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)獲得以来、9年連続でその地位を保ち、従来の常識からは大きくかけ離れた数々の騎乗もあり、「天才」と称された。しかし1979年3月4日、毎日杯の騎乗中に落馬。この時に重度の脳挫傷を負い、騎手生命を絶たれた。通算成績5086戦983勝。2004年、騎手時代の功績を認められ、騎手顕彰者に選出、中央競馬の殿堂入りを果たした。JRA騎手の福永祐一は長男である。


 1979年も順調に勝利を重ね、3月までに24勝を挙げ、リーディングのトップを独走していた。3月4日、阪神競馬場でエイシンタローに乗って983勝目を挙げた後、メインレースの毎日杯で洋一はマリージョーイに騎乗した。そこで悲劇が起こる。

 この競走の最後の直線において、斎藤博美が騎乗していたハクヨーカツヒデが前の馬に乗り掛かる形となり、まず斎藤が落馬。さらに後方から走ってきたマリージョーイの脚が斎藤に接触し、洋一は大きく前方にのめったマリージョーイの背から落ちて馬場に叩き付けられ、頭を強打するとともに舌の3分の2以上を噛み切る重傷を負い、その場で意識不明となった。

 洋一は斎藤の落馬に素早く反応し、これを避けようとして馬の進路を変えたが、その時の進路は、落馬時に騎手が落ちた方向から考えて、騎手を避ける事の出来る外側の進路であった。しかしながらこの時は、斎藤が通常とは逆の、馬が進もうとした外側に転がってきてしまい、避けることができずに馬が脚を引っかけたことが事故の原因であった。もし落馬への反応が遅れて真っ直ぐ走るか、斉藤が通常と同じ内埒沿いに転がっていれば、事故は避けられていたと言われている。

 なお、この競走のテレビ中継で実況アナウンスを務めていたのは、洋一と個人的にも親交があった杉本清であった。事故の瞬間は「おーっと1頭落馬、1頭2頭落馬、2頭落馬、マリージョーイも落馬、マリージョーイ落馬、マリージョーイが落馬しておりますが、ハシハーミット先頭、ハシハーミット先頭」といった、平静に近い実況を通した。しかしこれは冷静を努めたのではなく、「私は普通の落馬だと思っていました。彼は調教でもよく落ちてはケロッと起き上がっていたので、この時もそんな感じかなと思っていたのです」と、当時の心境を語っている。

 事故の発生後、洋一は直ちに馬場に待機していた救急車に乗せられて競馬場内の救護所に搬送され、当直の2人の医師と、馬主として毎日杯にケイシエルを出走させていた医師・内田恵司により救命措置が行われた。しかし舌からの出血が気管に流れ込み、呼吸障害による窒息死の危機が差し迫っており、この前日、全くの偶然に納入されていた新たな医療機器の一つである気道チューブを気管に挿入して気道の確保を行い、危機を回避した。しかし、瞳孔は散大し、血圧は低下、自発呼吸も極めて薄弱であった事から、3人の医師は、洋一が脳に深刻なダメージを負っており、早く医療設備の整った病院で治療しなければならないと判断し、救護所での応急的な処置を終えると、直ちに関西労災病院に搬送された。

 病院へ到着後、関係者から妻・裕美子に対して、洋一が落馬して入院する旨が伝えられた。しかしこの時点では、怪我がそれほど重篤なものとは考えておらず安穏としていた。裕美子が病院に赴くと、そこで初めて洋一が危篤である旨が伝えられた。

 病院への到着後、洋一はただちに集中治療室に入り、人工呼吸器を取り付けての治療が開始された。脳血管撮影により脳内出血が認められ、さらに外部の病院で行ったCTスキャンによる調査でもそれが裏付けられたが、落馬時の頭部へのダメージが大きい為にすぐには手術をせず、容態が落ち着いた2日後に脳内の血塊を取り除く手術が行われ、無事成功した。この頃には人工呼吸器の補助も不要となり、事故から13日後には、危篤状態からは脱したとの主治医の判断により、集中治療室から一般病棟に移動した。

 しかし意識は回復せず、やがて医師や裕美子の呼びかけに少しずつ反応するようにはなったものの、意識が戻るまでには至らなかった。しかし徐々に容態は安定し、12月には、医師の許可を得て短期間ではあるが久々に自宅に戻り、正月を迎えた。その後も関西労災病院での入院生活が続いた。相変わらず意識は明瞭ではなかったものの、院内でのリハビリの効果により、少しずつ回復の兆しを見せるようになってきた。

 1981年、妻の裕美子が「ドーマン法」という脳障害に対するリハビリテーション法を知り、2月に洋一と共に1週間渡米し、リハビリプログラムを教授された。これを機に退院すると、自宅近くの騎手宿舎の集会所を借り、自宅と共にリハビリテーション用機器を搬入して、プログラムに従って厳しいリハビリを開始した。

 約1年間のリハビリにより、同年9月、数歩であるが事故以来初めての自力歩行をすると、12月には義父の「おはよう」という挨拶に対し、「おはよう」と、たどたどしいながら応えるまでに回復した。その後も徐々にではあるが回復を続け、1984年10月には家族と武田文吾が見守る中で、栗東トレーニングセンター内の角馬場において、約5年半振りに馬に跨った。このとき馬上で、かつて好んで歌っていた『南国土佐を後にして』を口ずさんだという。この頃行われたインタビューでも、「騎手に復帰して勝ちたい」と語っている。なお騎手免許は、1981年に失効している。

 以降もリハビリが続けられる傍らで、長男・祐一は1992年に競馬学校を受験し、2世騎手への道を進み始めた。同年の結果は不合格であったが、「願書を出した」というのみで新聞に報じられ、さらに翌年の入学に際しては金屏風を前にしての記者会見が行われた。祐一は1996年3月2日に騎手としてデビューし、初騎乗初勝利を挙げた。この様子を洋一はテレビで観戦し、ゴール後は笑みを浮かべた。開催を終えた祐一が帰宅した際には、直々に「おめでとう」と声を掛けている。祐一は父が築き上げた人脈の恩恵も受け、当年新人としては異例の50以上の厩舎から騎乗を依頼され、新人騎手として史上3位の記録(当時)となる53勝を挙げてJRA賞最多勝利新人騎手を受賞した。この翌年に行われたインタビューの中で、祐一は「福永洋一の息子」と喧伝されることに対して「僕は全然嫌じゃないです。だって実際に僕は福永洋一の息子なわけですから。父がいなければ僕もいないんだし、父のことは尊敬していますしね。このまま最後まで“洋一の息子"でもいいと思ってます」と語り、また一方で、父の偉大性については「よく分からないです」と答えていた。

 以後、祐一は毎年ランキングの上位を占める騎手として定着し、2008年9月27日には983勝目を挙げ、通算勝利数において洋一の記録に並んだ。この際に祐一は「父の背中を追いかけてきたが、近付くにつれ色々と見えてきて、最初より遠ざかったようにも思えた」と述べた]。翌日には984勝を達成して洋一の記録を更新、11月30日には洋一が直前まで迫りながら達成できなかった通算1000勝を記録し、「福永洋一の息子として競馬の世界に入り、父に縁のある方々に支えられ、ここまでやってこられました。先日、父の勝利数を超えたことで自分の中でもおもりが取れ、福永祐一個人として歩み出せたような気がします」と語った。


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