2017年07月05日(水) 【日記】 「discommunication」は和製英語だそうである。コミュニケーションしないことが日本文化なのだろうか。あらゆる言葉は人間の前にひらかれてあるべきなのだろうという前提の下、私は否定される。親族一同あいつはおかしい奴だと思っているということでまちがいないのだろうし、私も親族に会わす顔を持たない。ずいぶんのびてしまったヒゲは、洞窟に住んでいることを露呈している。その顔がたとえある葬式のなかで泣いたとして、誰がほんとうの涙だと思うのだろうか。私は泣きながらでもふでをとるような外道だから。一周忌だか何だかも、遺体さえそこに無いのに、偶像崇拝のように招集されなければならない。会わす顔など無い。 雨がふったと思ったら止んでしまって、外へ出たとたんにふりだしやがった怒りがまだ落ち着かずに全裸のまま、外へ出るつもりがない。夜の散歩とは何ですか? 雨が私を否定して、後を祭るように虫の声がにぎやかである。癒やされるんですか? 私は殺意さえ沸いてきます。それは部屋が汚いせいなんだと思って片づけつづけているのに、殺意についてはやはりおちつくようすが無い。私は誰のために、自分の首根っこを抑えているのだろうか。汗ばかりかく首に、冷却シートを貼ることを覚える。 けもの道だと思って、あなたは読んだつもりになっていればいいよ。それが私にとっては惰性の散歩道。ほんとは近所なんて散歩したくないんだ。近所はいつも変わらないメンツだし、改造バイクがうるさい、パトカーもうるさい。虫の声も気に入らないし、家族づれは自分の土地であるかのようにメンツを引き連れて徘徊している。私の土地でもないからな、お互いディスコミュニケーションを分かっているからこそ。あなたは私のことなんか気にしないで、ただ次の更新を待っていればいい。あるいはもうそんなつまんないこともやめてしまって、一生テレビの前で運ばれてくるポテチかじってなよ。 <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
w友達に教えるw [編集] 無料ホームページ作成は@peps! |