人肉経

2017年06月03日(土)
【日記】
歩きながら思考することが自然な散歩者にとって、深夜の歩きスマホは創作の場を形成する。スーパーの帰りを選ぶ時、河川敷ルートは一人に苛まれる。苛まれたいがために道を選ぶのか、つい歩きたくなって結果、似たようなことばかり考えているのか。思想が額縁のように限界からはみ出ないのだとしたら、散歩とは隅の埃をほじくるような行為なのだろうか。

部屋の電灯が点かなくなったので、電池式のランタンのような明かりで凌いでしばらく経つ。明るくないからと言って本を熱心に読みたくなるとは限らないし、明るくなければ出来ないことなど、夜勤を経験してみれば大して変わらないと気づく。一つ一つとの焦点が合いやすくなり、光にまみれているから物が減らない。コンビニへ行けば何万種類と品揃えが用意されているにも関わらず、何を買うわけでもなく出たり入ったりすることもある。もしコンビニが廃墟のように、真っ暗に営業されていたら? ちょっとおもしろそうだと思う。

夜の散歩では、無関係な笑顔にすれ違わなくて済む。そうだとしたら私は、すれ違いざま、バカにされていると思い込む。電灯は感情が変わらないから好きかもしれない。そして点かなくなった部屋の電灯を新しくしようという気分はまるで起こらない。

台所に味噌が置いてあるのを見て、味噌買ったのだっけと思い出す。出かけなくとも最低限のカロリーが持ち帰ったその日に保証されていたはずなのが、数日もすれば上に何かが積み重ねられて忘れてしまう。腐った頃にようやく臭いで思い知らされる。死んだ時に死んだと、誰かに理解される人間の死はしあわせだったと思う。

電灯の色は白も橙も好きであるが、そういえば地元の青白さを、他のどこ歩いても見かけないような気がする。いかにも呪われているあの感じ、何が出てきたとしても、地元に驚くことも無いだろう。

23歳で死ぬと思っていたのが、お次は30歳で死ぬとやらの感覚ですか? 好きな年齢になったら自殺する自由を認めてもよいのかは置いておくとして、その黒はいつでも死ねるための色だったのではないですか? 夜に埋もれる感覚が嘘でないように、光があふれていると目を塞ぎたくなる。前よりぼやける文字のふえた気もするが、読めないからと言って心が変わるわけでもない。井戸の底から漏れてくる水量はだいたい一定なのであって、どう使うかとか器に入れるかとか、最近は浄水することもできるのだろうけど、私はすぐに汚れるからな。

誰とも話をしないというので自意識の檻は建築されつつ、何かを自由に作れる試みを言葉の他にやろうとはしない。キーボード弾いたって絵描いてみたって、それで一応は晴れるのだけれど、それ以上向き合おうとするでもない。量産される娯楽映画を眺めていて感じることだけれど、「如何にも」の感覚が自意識の檻じみてまとわりつくのでうっとおしい。必死に作った成果として「如何にも」が挿入されるのはどういうことなのだろう? そして私は日記を必死に作っているのだろう?

スマホの電池を外出するたびに切らしていたということもあり、スーパーの帰りに日記を書くくらいでちょうどよい長さなのかもしれない。夜の散歩が明けてしまうくらい歩いていると別の目的を持ち始めてしまうように、淫らになる前に酔いは私を潰すし、昼間にカレーを食べたというだけで、さっきも気持ち悪かった始末である。

ウォークマンがアルバム一枚を消費したので、書くのをやめよう。



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