人肉経

2017年07月15日(土)
【日記】
三泊四日で山に居た。といっても登ったり降りたり、夜の山を過ごすたびに怖いのとさびしいのとでふるえては、人を遠ざけたいながらも人の子であったことを感じる。

山道から離れた道のない空中を、白い光がついたり消えたりしていたのと三度すれちがった。高尾山では夜も人が歩いているのはめずらしいことでもなく、登山のシーズンということもあり別のルートを歩いて下っている人なのだろうと、明けてからなるほどあれは夜の使い、蛍だったかもしれないと思う。

山は山ながら、ふもとの古本屋では『アルプ』を見つける。かつて三百号つづいた、山の文芸誌。そこにはよく一般の雑誌で紹介されているような、山のグラビア、用品の宣伝、登り方の技術というものが載っているわけではなく、何を山に見ているのか、なぜ山にのぼるのかといったような問いにつらなるイメージが並んでおり、読んでいるだけでも山に居る気分にさせられるし、きっと私はこういう文学の、詩の雑誌を読みたかったのだと山頂で読んでいた。「高野聖」と併せて、貴重な文学体験ができたと心の片鱗を山に置いて来た気分である。

お腹がすいては食パンを一枚ずつ、味が欲しければアメを一個ずつ、コーヒーを欲すれば水に粉を溶いてコーヒーにし、味に飽きることはあっても食うに困るということはなかった。帰って人の為せるラーメンを食べてみても、確かにおいしい味はついているけれど、腹を満たすことに何の意味があるのか、味も店員も教えてはくれないと思った。ただ黙々と、あるいは暗闇のなかで、自分のためだけにコーヒーを飲んでいると、そこには何らかの意味というものが生じるようになる。

また下りているうちに、人波の毒にやられて殺意の強められるのだろう。山上でもことあるごとに人はあらわれつつ、気にしないよう日陰のベンチでひっくり返ったり倒れたりしていたが、それくらいの適当さで山の猫も山をくつろいでいた。人のつくるくつろぎはいつもどこかわざとらしいが、山の道は誰かが歩いたゆえに道となることはよく知っているとおりである。夜の散歩では道のやさしさに、よりふれることとなり、立ち止まるからこそ見えていたものもあったに違いない、何かの因果によって思い出せたら素晴らしい。







w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
++新着ブログ記事++